法華経一部読誦講習会 in WEST

一々文々のオウム返しによる一部経読誦の講習会です。令和元年より関西でも開講しております。

怨嫉多し

法師品第十に、「而此経者。如来現在。猶多怨嫉。況滅度後」という経文があります。
「しかもこの経は如来の現在すらなお怨嫉多し。いわんや滅度の後をや」と訓じます。
(この法華経を説けば、釈尊が説法なさっている在世ですらうらみやねたみが激しいのであるから、まして釈尊入滅後にはさまざまな法難が待ち受けている(日蓮聖人全集訳))

日蓮聖人は多くのご遺文でこの経文を引用され、『観心本尊抄』では、法華経末法の人々のために説かれた教えであることの証として、いくつかの経文と共にこの文を挙げておられます。

 

四之巻の内容講義の際、三木天道上人が「皆さん、この「怨嫉」という言葉を聞くと、どのようなことをイメージなさいますか?」と尋ねられました。
辞書には「怨」は「うらむこと。にくいと思うこと。不満足に思うこと」、「嫉」は「ねたむ。にくむ。他人の良いところを憎らしく思う」とあります。
日蓮聖人は、怨む人々・嫉む人々から数々の迫害を受けられますが、実は、そういった直接攻撃を加えるようなことだけを「怨嫉」というのではないのです。
 

これについて日蓮聖人は、『寺泊御書』の中で「天台の意に云く」と、妙楽大師の『法華文句記』の言葉を用いて次のように説明なさっています。

「一切の声聞・縁覚ならびに近成を楽う菩薩等云云。」
「聞かんと欲せず、信ぜんと欲せず、その機に当らざるは言を出して謗ることなきも、皆怨嫉の者と定めおわんぬ。」
法華経を聞こうともせず、信じようともせず、受容しようとしない者は、たとえ口に出して公然と謗らなくとも、それらはすべて法華経の怨嫉であると断定された(日蓮聖人全集訳))
 
声聞や縁覚、始成正覚の仏を信ずる菩薩さま方にしてみれば、法華経が説かれる以前は、自分たちが仏に成れるとは思いもよらないことだったのですから仕方ないですが、法華経が説かれた以後もこれまで同様の信行に固執することを戒められているのでしょう。
そして、問題は、お釈迦さま滅後に法華経を信仰する私たちに向けられた言葉です。
法華経を聞こうともしないし、信じようともしない。こういう人々こそが怨嫉なのだ、と。
 

現代社会には「サイレントマジョリティー」なんて言葉もありますが、口に出して人を責めたり攻撃したりしなくても、「聞かず信ぜず」が怨嫉である、と言われるのです。
「葬式仏教」などと言われ、私たち僧侶自身も法を説くこと、法華経を弘めることを第一の目的とせず、お寺の経営を優先しているようなお恥ずかしい状況。

この経文は、「私たちこそ、法華経を謗っている怨嫉なのではないか」と自らを省みる訓戒としなければならないのではないでしょうか。 
そして、法を説くことを求められていない世間の現状もまた、まさに「怨嫉多し」と予言された様そのものです。そういった有様に向き合うことが私たち僧侶の本分であることは言うまでもありませんが、口で言うは易し、です・・・
 

一部経を読誦し、そこに説かれる言葉を自分のことと受け止め、僧侶としての本分を再確認する、そんなありがたい内容講義での一場面。 十数人で聴講するには勿体無い内容でした。
講習会の受講は言うまでもありませんが、内容講義のみのご参加も歓迎しています。どうぞ共に学びを深めましょう。