法華経一部読誦講習会 in WEST

一々文々のオウム返しによる一部経読誦の講習会です。令和元年より関西でも開講しております。

三徳偈

法華経の譬喩品第三に、「三徳偈」と呼ばれる箇所があります。
三徳とは、主・師・親の3つの徳のことで、言うまでもなく、これら3つは私たちが敬うべき誠に尊い存在です。
そして、日蓮聖人も「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる」と仰るように、世に多くの仏さまがいらっしゃいますが、この娑婆世界に於いて、これら三徳を全て兼ね備えていらっしゃるのはお釈迦さまただ一人であるとされています。

この三徳偈は、欲令衆の一部として読むことが多いですが、譬喩品に「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」と説かれています。
今更申し上げるまでもなく、「今この三界は、皆これ我が有なり」とは、お釈迦さまがこの娑婆世界の主であるということです。
次に、「その中の衆生は、皆これ吾が子なり」と、私たち衆生は皆、御仏の子であると示されていますから、お釈迦さまは私たちにとっては親ということになります。
そして、「ただ我一人のみ、よく救護を為す」とあり、お釈迦さまは私たちを救おうと教え導いてくださる師匠である、と示されています。
ですから、この三徳を兼ね備えられたお釈迦さまはこの上なく尊い存在として、私たちは誰よりも何よりも敬わなければなりません。

さて、いつもの如く前置きが長くなりましたが、ここからが今日の本題。
先日郵送されてきました宗報の一月号に、この三徳偈について述べられた文章が掲載されていました。
日蓮宗事典』には「日蓮聖人によれば主・師・親の三徳は、末法法華経を弘める法華経の行者にも備わる」と記されており、開目抄で述べられた「柱」「眼目」「大船」の三大誓願にこれら三徳を配されたと言われます。
そしてそのご文章では、私たち現代の日蓮宗教師も、教師の資質として、小さくとも三徳を具えなければならない、とご教示くださっていました。

そのお話の中に、三徳偈の「~唯我一人 能為救護」はだれでも覚えているが、その続きをきちんと述べられる方は少ない、と記されており、私は「ドキッ」としてしまいました。
三徳偈は、欲令衆のみならず、釈尊降誕会や涅槃会といったお釈迦さまに関する法要では必ずお唱えしますから、もちろん覚えています。
しかし、「その続きは?」と問われると・・・。
一部経の講習会を開催し、自坊でも読誦に励んでいるつもりでしたが、なんともお恥ずかしい限りです。(私個人のレベルの問題であり、すべての講師が同様ではありません、ご安心ください)

三徳偈の続きには「雖復教詔 而不信受(また教詔すと雖も、しかも信受せず)」と説かれます。
三徳を兼ね備えたお釈迦さまが、私たちに教えを説いてくださっていても、私たちは「貪著深きが故に、その教えを信受しない」と説かれているのです。
日蓮聖人も、この経文を「而不信受」まで引用され、爾前の教えではなく法華経を信仰すべきとお示しになっています。
こうお読みしますと、三徳偈は単なる「ありがたい経文」ではなく、このありがたい教えを信受しない自分への訓誡としてお読みすべき経文なのだなぁ、とあらためて思い、よい反省となりました。

『土篭御書』に「法華経を余人のよみ候は、口ばかりことば(言)ばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。」と示されます。
口だけでなく、言葉だけでなく、心に法華経を読み、そして身で実践する。そういう僧侶を目指してこれからも精進してまいります。