法華経一部読誦講習会 in WEST

一々文々のオウム返しによる一部経読誦の講習会です。令和元年より関西でも開講しております。

如是我聞の心境

ご存知の通り、法華経はもちろん、ほとんどの経典は「如是我聞」の言葉で始まります。
「是の如く我聞きき」と読みますが、これは「多聞第一」と敬われた阿難尊者の言葉であると言われます。

阿難尊者は侍者になってからお釈迦様がご入滅されるまで25年もの間、常にお釈迦様に付き従い、身の回りのお世話を進んで行いました。ですから、お釈迦様のお説法を直に、誰よりも多く聞き、熱心に仏道修行に励んでおられました。

お釈迦様がご入滅された後、お弟子様たちは、尊い教えを誤ることなく世に伝える為、集会を開き、その教えについて互いに確認し合いました。
これを結集(けつじゅう)といいますが、この時に、多聞第一である阿難尊者が代表して、「私はお釈迦様からこのように聞きました」とお話になったのです。
これを後世、文字にしたものが経典ですから、経典は「如是我聞」で始まるのです。

ではこの時、阿難尊者は一体どのようなお気持ちで「如是我聞」と仰ったのでしょうか?
『諸法実相抄』という御遺文に次のように記されています。
「彼の千人の阿羅漢、佛のことを思ひいでて涙を流し、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へさせ給へば、千人の阿羅漢の中の阿難尊者は泣きながら如是我聞と答へ給ふ」

以前、「法華経一部読誦講習会 in WEST」の内容講義を担当くださっています京都市教法院ご住職の三木天道上人が、この一説をご紹介下さって、「阿難尊者は泣きながら「如是我聞」と仰ったのです」とお話しくださいました。

「佛のことを思ひいでて」とあるのですから、お亡くなりになったお釈迦様へ恋慕の思いを馳せ、涙を流しておられたのでしょう。私たちは、お経をただの呪文のようにお唱えしてはいけない、その時のお釈迦様やお弟子様のお気持ちを考えながら、心を注いで読まなければいけません、という講義内容でした。

さて先日、京都一部布教師会の勉強会があり、三木天道上人がご講義くださいました。
その席で三木上人が仰るには、「あの阿難尊者の話をした後、何度も『諸法実相抄』を読み直してみたが、どうも前後の文を読み損ねているようだ」とのお話でした。

『諸法実相抄』には、「末法に生まれて法華経を弘めん行者は三類の敵人有て流罪死罪に及ばん。然れども堪えて弘めん者をば衣をもて釈迦佛をほひ給べきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ。(中略)此の如く思ひつづけて候へば流人なれども喜悦はかりなし。うれしきにもなみだ、つらきにもなみだなり。涙は善悪に通づるものなり」とあります。
この後に、上述の「佛のことを思ひ~」と続き、「今、日蓮もかくのごとし。(中略)現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思ふて喜ぶにもにあみだせきあへず」と記されます。

三木上人は、『諸法実相抄』に「うれしきにも涙、つらきにも涙」と示されるように、阿難尊者の「如是我聞」には、惜別、恋慕の涙もあったでしょうが、やはり「一切衆生のために留め置き給う処の妙法蓮華経」に出会うことができた喜悦の心に溢れておられた涙でもあったのでしょう、とのことでした。

私も阿難尊者のお気持ちを考えながら「如是我聞」とお唱えしたいなと思います。