法華経一部読誦講習会 in WEST

一々文々のオウム返しによる一部経読誦の講習会です。令和元年より関西でも開講しております。

単己無眷属

昨日の内容講義でも、「五之巻の中でも、特に従地涌出品第十五が大切ですね」とおっしゃっていました。なぜなら、地涌の菩薩様がお出ましになるからです。

地涌出品では、六万恒河沙の菩薩様方が涌出され、しかもそれぞれに六万恒河沙の眷属をお連れになっている、と説かれています。
恒河沙とは「ガンジス川の砂の数ほどたくさん」という意味で、つまりは数えきれないほど膨大な量を意味します。
余談ですが、日本では江戸時代に恒河沙は10の22乗(10,000,000,000,000,000,000,000)と定義されていたそうで、例えばこの説を用いますと、六万恒河沙とはそのさらに6万倍ですから、数字で書くと600,000,000,000,000,000,000,000,000人の菩薩さま。そこに、それぞれが六万恒河沙の弟子を引き連れているのですから、総勢で360,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000人の菩薩とその眷属たち、ということになりますね。むむむ、確かに数えられない・・・。

その膨大な数の菩薩さま方は、お釈迦様の滅後に法華経を弘めるという使命を預かられた方々でありますから、末法鎌倉時代にお出ましになり、身命を惜しまず法華経の弘通に励まれました日蓮聖人は、地涌の菩薩に違いありません。
そしてその末弟である私たちもまた、かたじけなくも僧侶として法華経を語っているわけですから、地涌の菩薩なのだと習います。

私自身、信行道場を出て以来、何度も「『私たち僧侶はみんな地涌の菩薩である』という自覚を持ち、いかなる苦難にも負けず、身命を惜しまず、法華経を弘めなければなりません」と訓示をいただいてまいりました。
しかし、まだ大学出たばかりの私(いえ、今も尚)にはそんな言葉は大変重いものでした。
そんな時、「地涌の菩薩にもいろいろあるんだよ」と教えてくださった方がありました。

地涌出品を読み進めますと、地涌の菩薩には、一万人の眷属を連れた菩薩、千人、百人、十人の眷属を連れた菩薩、三人、二人、一人の弟子を連れた菩薩、と続き、最後には「単己無眷属」と、本人のみで一人の眷属も連れていない菩薩もいると説かれます。
その恩師は、「それ程の弟子の多少があるということは、地涌の菩薩にもエリートもいればそこそこの菩薩もいるのでしょう。だから、貴方も貴方で、自分の力に応じて頑張ればいいじゃないですか」と言ってくださったのです。

弟子を一人も連れていないとはいえ、地涌の菩薩はみな金色で三十二相を具えていると説かれます。長年にわたる仏様の教化を受け、自身も菩薩行に励まれ、そのようなお姿になられたのですね。
ですから、私のような凡僧と比べることは大変おこがましいことです。

しかし、私たちもまた、今世において法華経とのご縁をいただき、浅薄ながらも僧侶として人々に語る機会をいただいているのだから、きっと従地涌出品に登場する夥しい数の菩薩様やその眷属・弟子の中にいたのでしょう。

ならば、うだうだと言い訳を言う暇があれば、恩師が叱咤してくれたように、自分にできる限りの教化を、悩み、喜び、楽しみながら取り組むべきなのだ、とそれ以降、考えるようになりました。
そして、自分が無眷属だったとしても、仲間は六万恒河沙もいるのですから、決して心細くはないのです。そう考えるととても楽しく思えますね。

読み返すとやはり、大分とおこがましい文章になってしまいましたが、五之巻講習会中に思い出したエピソードでした。