法華経一部読誦講習会 in WEST

一々文々のオウム返しによる一部経読誦の講習会です。令和元年より関西でも開講しております。

モンポウカンギ! サンナイシホツ!・・・?

私たちが読経する際、堂内であれ、墓前であれ、いきなりお経から始まることは少なく、「勧請」という次第を先に行います。
宗定法要式には、勧請とは「三宝諸尊の来臨を請し、大慈悲の加被を祈求すること」と記されており、私たちは、行事の大小、現地の状況に応じて、丁寧な勧請文を読んだり、短い略勧請文を唱えたりしています。

略勧請文としてよく耳にするのが「聞法歓喜讃 乃至発一言 即為已供養 一切三世佛」の四句です。
これは、方便品第二の終盤に出てくる句で、「法を聞いて歓喜し讃めて、ないし一言をも発せば、即ちこれすでに一切三世の佛を供養するなり」と訓みます。
法華経を聞くことは優曇華の花に出会うほど稀有であるが、法を聞いて歓喜し、讃めて一言でも発するならば、それは一切の三世の仏に供養することであり、その人は優曇華よりももっと稀有である」とお釈迦様は述べられた後、舎利弗さまに「諸々の疑惑なく、心に大歓喜を生じて、自らまさに作佛すべしと知れ」とお告げになり、方便品は閉じられます。

経文の意味から考えると、宗定法要式に示される「三宝諸尊の来臨を請じ〜」という意味よりも、「そんな稀有な教えに出会えたこと」や「一切三世の諸佛に供養できること」に対する歓喜の表明のように思えますが、勧請の際にはこの四句に続けて「殊には末法の大導師・・・来到道場知見照覧、御法味納受」等と続けますから、「今からお唱えする御法味は歓喜に満ち溢れたものでありますから、一切三世の御仏様方よ、どうか納受ください」と表白する文章なのでしょう。

私の勝手な解釈はさておき、この四句がとても重要な経文であることは間違いありません。
ですが、この文言を誤ってお唱えになっている方が結構いらっしゃるように思い、今回のコラムの題材としました。

1つ目の誤りは、今コラムのタイトルにしました、句切る場所です。
これは五字偈ですから、上述のように「聞法歓喜讃」と五文字で句切ります。ですが、タイトルのように四字偈に聞こえるように句切っておられる方が意外といらっしゃいます。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」の言葉のように、私たちは、経文を目にするよりも他人が唱えていることを耳から聞いて覚えたことが多くあります。
この方便品の四句を五字偈として実際にご覧になるより前(例えば小僧の頃)に、導師の唱える略勧請文として耳から覚えた方は、その時に四字偈のイメージで覚えてしまったのかもしれません。

2つ目の誤りは、3句目の「即為已供養」を「即為供養」(即已供養?)と一文字飛ばして読まれる方が非常に多いです。
「い」が2字続きますから、「い・い」と発音しているのが「い〜」と発音しているように聞こえているだけかもしれませんが、明らかに「い」と読み、一文字分短い方が少なくありません。
「五字偈の四句である」と知っていれば防げる誤りだと思いますが、1つ目と同様、目より先に耳から覚え、そのまま唱え続けているうちに染み付いてしまったのだと想像します。

一部経読誦で一巻通読する時は「聞法歓喜讃」で金丸を打つ場合が多く、その際はここから緩調になりますから、この四句を実際に目で見る機会が多いと思います。
実際に目で見れば、五字偈であることは一目瞭然ですから、誤認を改めるよい機会となるのではないでしょうか。

私たちは読経だけでなく、勧請文や回向文、祈願文などで、法要の趣旨に合わせて経文を諷誦しますが、文例集を読んでいると、その文言の意味や経中での文脈を知らないままに使っていることが多いことに気づきます。
お経の意味を理解し、意味を味わって読誦し、法要の趣旨に相応しい文言を用いた回向や祈願を述べる。その為には、一部経についての学びを深めることは欠かせません。
一部経読誦講習会では、お経の読み方だけでなく、こういった語句の意味や使用例などもお伝えしています。
コロナの影響で未だ講習会を再開できずにおりますが、再開を楽しみに準備を整えて日々過ごしてまいりたいと思います。(ちゃんとコラムの更新もがんばります(汗))