法華経一部読誦講習会 in WEST

一々文々のオウム返しによる一部経読誦の講習会です。令和元年より関西でも開講しております。

四之巻 内容講義

毎回、講習会の中日には、外来講師を招き、その巻の内容について講義を頂いています。
WEST講習会では、京都一部布教師会会長、京都市上京区 教法院ご住職の三木天道上人に、毎度笑いの絶えない楽しい講義をお聞かせ頂いています。

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今回は四之巻。「五百弟子受記品第八」、「授学無学人記品第九」、「法師品第十」、「見宝塔品第十一」の内容について、2時間では足りませんね…。

四之巻を読誦してますと、第九まではお弟子様方への受記が説かれますが、法師品に入りますと何だか雰囲気が変わり、急に(?)、「この経を受持し」「よく妙法華経を受持することあらん者は」と、繰り返し「受持」という言葉が出てきます。
また、「滅後の悪世」「如来の滅後」と、後の世のことが話されます。

『新尼御前御返事』には、「法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品嘱累に事極りて候」とあり、これを「起顕竟の法門」と言います。
日蓮宗事典には「この「事」とは法華経付嘱の大事、末法救済の大事をいうのである」と記されており、法師品からいよいよ末法の私達にとって大切な法門が、そして、私たち僧侶が行じるべき弘経について説かれるのです。
また、見宝塔品では、説法の会座も虚空会に移り、単に頭だけで理解することの出来ない不可思議な境地が説かれます。

迹門は要らないとか、声聞への受記は私たちには関係ないとか、そんなことを言うつもりは一切ありませんが、「いよいよ私たちへ向けての教えが説かれ始まったぞ!」と、なんだかウキウキしてしまいます。

今夜の講義は、休憩時間もなしで、予定していた2時間を30分以上オーバーする大演説となりましたが、退屈する事など全くなく、まだまだ聴き足りない、そんな悦び溢れる講義でした。
(皆様、話を聞き足りないご様子で、講義終了後もしばらく、講師を囲んで質疑応答や談話が繰り広げられてました。)

内容講義だけでも聞きたい、という方が今夜もいらっしゃってました。
せっかくの機会なので、講義だけのご参加も受け付けております(本音はもちろん、講習会への参加ですよ…)。
皆様のご参加、お待ちしています。

四之巻講習会2日目

当講習会では、二泊三日を通して法華経の一巻を学んで頂く日程になっております。
初日には、巻の前半を一々文々のオウム返しで習い、翌朝の朝勤では初日に習いました部分を通して読誦します。
2日目には残りの後半をまたオウム返しで習い、翌3日目の朝勤にてその部分を読誦します。

今朝の朝勤では、四之巻の前半をゆっくりの雨垂れで、40分程かけてお読みしました。
時間に追われる日常では、ゆっくりお経を読むことは少ないかも知れませんが、今朝くらいのペースだと、いつもより注意深く読むことが出来たり、お経の内容に心を寄せることができたりと、色々な効能があるように思います。

そして、ハイペースで勢いで読んでる時に比べて丁寧に読みますから、誤りや不確かな箇所に気付くことができます。

受講者の皆様も、一々文々で習っている時は読めていたのに、通して読むと間違ってしまったり、「ここは分かるから大丈夫」と言って書き込まなかった部分が、実践では読めずに「あれ?どう読むんだっけ?」となったりすることがあったと思います。
何より、大勢で取り組むことで、1人では気付けなかった誤りに気付けることも増えるでしょう。

このようにして、習得の不十分な部分にすぐに気が付けるのはとても大切なことです。
そうすると、仲間と「ここはどう読むんだっけ?」とすぐに確認したり、講師に尋ねたりして、不確かな箇所を放置せずにすみます。

「二泊三日は長いなぁ」と思いますが、読経を習熟するのには、もっともっと長い年月がかかります。
自坊へお帰りになってからは、お一人で読誦に取り組まれることがほとんどでしょう。
その時、不確かな情報やあいまいな理解がいくつもあれば、そのうち心が折れてしまうかもしれません。
お経が上達するには、ただただ反復あるのみです。

私たち講師陣ももちろん道半ばです。
ともに励まし合い、高め合い、補い合い、一部経の習熟に精進を重ねましょう。

四之巻の講習会、始まりました!

いつまでも暑い日が続いてましたが、お彼岸も過ぎ、残暑も少しずつ和らいできた気がします。(と、打ち込んで講義会場から外へ出ると、厳しい京都の日差し…)

そんな本日より、京都山科の大本山本圀寺様を会場に、法華経一部読誦講習会〜四之巻〜が始まりました。

実に4年ぶりの開催なので、スタッフも色々と思い出しながら準備を進めて来ましたが、先程無事に開講することができました。
只今、ピリっとした空気の中、一々文々の読経練習が行われております。

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京都を会場とすることで、西日本の各地からのご参加があるとよいな、との思いで始まりました講習会WEST。
コロナでしばらく開催を見送っていましたが、今回、そんな思いの通り、近畿のみならず、香川県岡山県からの初参加者が来られました。
こんな風に、徐々に一部経読誦の仲間が増えて行くのは誠に嬉しいものです。
スタッフ一同、講習会を通してこのご縁がますます深まる、そんな機会となりますよう、運営に努めてまいります。

 

今回からも大歓迎!

前回、講習会再開の記事で書き損ねた内容を。


今回開催しますのは四之巻の講習会です。
皆様へご参加のお誘いを申し上げますと、「ええ〜、途中からやん」とか「今度、一之巻から参加するわ」と返事をされることが多くあります。
その気持ち、よくわかります。
「それなら何で一之巻の時に参加してくれへんかったんや」と言いたいところですが、それを言っても始まりません。


幸い、この講習会は何周も何周も開催し続ける予定でいます。
ですので、今回、四之巻からご参加いただいた方も、五、六、七、八之巻と続けて受講くださると、その次には一之巻に戻ります。そしてそのまま続けて二、三之巻と受講いただきますと、めでたく法華経一部コンプリート受講となる仕組みです。

当講習会は、およそ年に3回ほどのペースで開催しています(コロナ中を除く)。
つまり、法華経一部を全て受講するには2年半〜3年かかることになります。
ということは、順調に進んだとして、次に一之巻の講習会を開催するのは令和7年の初頭頃となるでしょうか。
「どうせなら一之巻から参加したい」という理由で今回の参加を見送ってしまえば、もしかすると令和7年までに、受講意欲が萎んでしまうかもしれません。
 

思い立ったが吉日です。どうぞ、今回からご参加ください。
 

最近では「ファスト教養」なる言葉もあり、長い年月をかけてじっくり学ぶことより、短時間で掻い摘んで要点のみ習得する方が利口であるように捉えられる風潮がありますが、お経はそういう訳には行きません。
中には「普段のお寺の行事で読むことがないから、一部経を学ぶ必要はない」というようなことを仰る方もいますが、本当にそうでしょうか?
また、一度受講したからと言って、以後もご自身の精進が続かなければ身につくことはないでしょう。
そして、私達スタッフも未だ道半、発展途上の僧侶です。学びが完成することはまだまだ(一生?)ありません。
新型コロナにより予定外の足踏みを余儀なくされましたが、今後も皆様とともに学びを深めることができる場をしっかりと運営し、有意義な精進が重ねられるよう、努めてまいりたいと思います。
どうぞ多くのご参加を賜りますよう、お願いいたします。

講習会再開します!

皆様、大変ご無沙汰しております。
気がつけば1年以上もブログの更新も怠ってしまっていました。お恥ずかしい限りです。


さてこの度、新型コロナの五類への移行を受けて、当講習会もいよいよ再開することとなりましたので、以下の通りご案内いたします。
多くの皆様のご参加をスタッフ一同、心よりお待ち申し上げます。
 

日 時:令和5年9月27日(水)〜29日(金)2泊3日

会 場:大本山本圀寺(京都市山科区御陵大岩町6)

内 容:法華経巻第四(カナなしの経本をご持参ください)

対 象:日蓮宗教師・沙弥

参加費:30,000円(宿泊費・食事代を含む)

申し込み締め切り:9月19日(火)


先日、チラシを発送いたしましたので、詳細はそちらをご参照ください。
インターネットでのお申し込みも可能です(こちらよりどうぞ)。
 

モンポウカンギ! サンナイシホツ!・・・?

私たちが読経する際、堂内であれ、墓前であれ、いきなりお経から始まることは少なく、「勧請」という次第を先に行います。
宗定法要式には、勧請とは「三宝諸尊の来臨を請し、大慈悲の加被を祈求すること」と記されており、私たちは、行事の大小、現地の状況に応じて、丁寧な勧請文を読んだり、短い略勧請文を唱えたりしています。

略勧請文としてよく耳にするのが「聞法歓喜讃 乃至発一言 即為已供養 一切三世佛」の四句です。
これは、方便品第二の終盤に出てくる句で、「法を聞いて歓喜し讃めて、ないし一言をも発せば、即ちこれすでに一切三世の佛を供養するなり」と訓みます。
法華経を聞くことは優曇華の花に出会うほど稀有であるが、法を聞いて歓喜し、讃めて一言でも発するならば、それは一切の三世の仏に供養することであり、その人は優曇華よりももっと稀有である」とお釈迦様は述べられた後、舎利弗さまに「諸々の疑惑なく、心に大歓喜を生じて、自らまさに作佛すべしと知れ」とお告げになり、方便品は閉じられます。

経文の意味から考えると、宗定法要式に示される「三宝諸尊の来臨を請じ〜」という意味よりも、「そんな稀有な教えに出会えたこと」や「一切三世の諸佛に供養できること」に対する歓喜の表明のように思えますが、勧請の際にはこの四句に続けて「殊には末法の大導師・・・来到道場知見照覧、御法味納受」等と続けますから、「今からお唱えする御法味は歓喜に満ち溢れたものでありますから、一切三世の御仏様方よ、どうか納受ください」と表白する文章なのでしょう。

私の勝手な解釈はさておき、この四句がとても重要な経文であることは間違いありません。
ですが、この文言を誤ってお唱えになっている方が結構いらっしゃるように思い、今回のコラムの題材としました。

1つ目の誤りは、今コラムのタイトルにしました、句切る場所です。
これは五字偈ですから、上述のように「聞法歓喜讃」と五文字で句切ります。ですが、タイトルのように四字偈に聞こえるように句切っておられる方が意外といらっしゃいます。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」の言葉のように、私たちは、経文を目にするよりも他人が唱えていることを耳から聞いて覚えたことが多くあります。
この方便品の四句を五字偈として実際にご覧になるより前(例えば小僧の頃)に、導師の唱える略勧請文として耳から覚えた方は、その時に四字偈のイメージで覚えてしまったのかもしれません。

2つ目の誤りは、3句目の「即為已供養」を「即為供養」(即已供養?)と一文字飛ばして読まれる方が非常に多いです。
「い」が2字続きますから、「い・い」と発音しているのが「い〜」と発音しているように聞こえているだけかもしれませんが、明らかに「い」と読み、一文字分短い方が少なくありません。
「五字偈の四句である」と知っていれば防げる誤りだと思いますが、1つ目と同様、目より先に耳から覚え、そのまま唱え続けているうちに染み付いてしまったのだと想像します。

一部経読誦で一巻通読する時は「聞法歓喜讃」で金丸を打つ場合が多く、その際はここから緩調になりますから、この四句を実際に目で見る機会が多いと思います。
実際に目で見れば、五字偈であることは一目瞭然ですから、誤認を改めるよい機会となるのではないでしょうか。

私たちは読経だけでなく、勧請文や回向文、祈願文などで、法要の趣旨に合わせて経文を諷誦しますが、文例集を読んでいると、その文言の意味や経中での文脈を知らないままに使っていることが多いことに気づきます。
お経の意味を理解し、意味を味わって読誦し、法要の趣旨に相応しい文言を用いた回向や祈願を述べる。その為には、一部経についての学びを深めることは欠かせません。
一部経読誦講習会では、お経の読み方だけでなく、こういった語句の意味や使用例などもお伝えしています。
コロナの影響で未だ講習会を再開できずにおりますが、再開を楽しみに準備を整えて日々過ごしてまいりたいと思います。(ちゃんとコラムの更新もがんばります(汗))

三徳偈

法華経の譬喩品第三に、「三徳偈」と呼ばれる箇所があります。
三徳とは、主・師・親の3つの徳のことで、言うまでもなく、これら3つは私たちが敬うべき誠に尊い存在です。
そして、日蓮聖人も「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる」と仰るように、世に多くの仏さまがいらっしゃいますが、この娑婆世界に於いて、これら三徳を全て兼ね備えていらっしゃるのはお釈迦さまただ一人であるとされています。

この三徳偈は、欲令衆の一部として読むことが多いですが、譬喩品に「今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」と説かれています。
今更申し上げるまでもなく、「今この三界は、皆これ我が有なり」とは、お釈迦さまがこの娑婆世界の主であるということです。
次に、「その中の衆生は、皆これ吾が子なり」と、私たち衆生は皆、御仏の子であると示されていますから、お釈迦さまは私たちにとっては親ということになります。
そして、「ただ我一人のみ、よく救護を為す」とあり、お釈迦さまは私たちを救おうと教え導いてくださる師匠である、と示されています。
ですから、この三徳を兼ね備えられたお釈迦さまはこの上なく尊い存在として、私たちは誰よりも何よりも敬わなければなりません。

さて、いつもの如く前置きが長くなりましたが、ここからが今日の本題。
先日郵送されてきました宗報の一月号に、この三徳偈について述べられた文章が掲載されていました。
日蓮宗事典』には「日蓮聖人によれば主・師・親の三徳は、末法法華経を弘める法華経の行者にも備わる」と記されており、開目抄で述べられた「柱」「眼目」「大船」の三大誓願にこれら三徳を配されたと言われます。
そしてそのご文章では、私たち現代の日蓮宗教師も、教師の資質として、小さくとも三徳を具えなければならない、とご教示くださっていました。

そのお話の中に、三徳偈の「~唯我一人 能為救護」はだれでも覚えているが、その続きをきちんと述べられる方は少ない、と記されており、私は「ドキッ」としてしまいました。
三徳偈は、欲令衆のみならず、釈尊降誕会や涅槃会といったお釈迦さまに関する法要では必ずお唱えしますから、もちろん覚えています。
しかし、「その続きは?」と問われると・・・。
一部経の講習会を開催し、自坊でも読誦に励んでいるつもりでしたが、なんともお恥ずかしい限りです。(私個人のレベルの問題であり、すべての講師が同様ではありません、ご安心ください)

三徳偈の続きには「雖復教詔 而不信受(また教詔すと雖も、しかも信受せず)」と説かれます。
三徳を兼ね備えたお釈迦さまが、私たちに教えを説いてくださっていても、私たちは「貪著深きが故に、その教えを信受しない」と説かれているのです。
日蓮聖人も、この経文を「而不信受」まで引用され、爾前の教えではなく法華経を信仰すべきとお示しになっています。
こうお読みしますと、三徳偈は単なる「ありがたい経文」ではなく、このありがたい教えを信受しない自分への訓誡としてお読みすべき経文なのだなぁ、とあらためて思い、よい反省となりました。

『土篭御書』に「法華経を余人のよみ候は、口ばかりことば(言)ばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。」と示されます。
口だけでなく、言葉だけでなく、心に法華経を読み、そして身で実践する。そういう僧侶を目指してこれからも精進してまいります。