先日、和讃についての講演を聴聞する機会がありました。
和讃とはご存知の通り、仏様、菩薩様、祖師や先師の徳、経典・教義などを讃嘆する歌のことで、日蓮宗に限らず色々な宗派で行なわれています。
御会式や慶讃法要などで、日蓮聖人のご生涯を讃えた詩を奉唱しておられるのをよく拝見します。
お自我偈に「常にもろもろの伎楽を作し」とあるように、お経には音楽を仏様に供養することの尊さが繰り返し説かれます。
仏祖や教えを讃えた歌といえば声明もそうですし、雅楽も音楽供養として法要に取り入れられています。
声明、雅楽、和讃。受持、読誦、解説、書写の五種法師の大切さはもちろんですが、音楽供養も同様に、大変尊いものです。
先日、七之巻の講習会で妙音菩薩品第二十四をお稽古しましたが、妙音菩薩様は「妙なる音」というその名前からすでに音楽的要素がたっぷり。
植木雅俊先生は妙音菩薩を「明瞭で流暢に話す声を持つもの」と翻訳されており、私のようなガラガラ声で辿々しく話す僧侶にすれば、心底憧れる名前です。
さて、その妙音菩薩品では、妙音菩薩様が不思議な力を現じて法華経の会座の人々を驚かせます。
それを見た菩薩様方はお釈迦様に「妙音菩薩様はどのような善根を植え、どのような功徳を修して、このようなお力を得られたのでしょう?」とお尋ねになります。
お釈迦様は「雲雷音王仏という名の仏様の為に十万種の伎楽をもって供養した。また、七宝で作られた八万四千もの器を捧げた功徳による」とお答えになりました。
妙音菩薩様は音楽の供養と宝の器の布施によって人々を魅了する不可思議な力を得られたのです。もちろん、それ以外にも数えきれない程多くの仏様に会い、たくさんの徳を積まれたのですが、音楽供養の尊さが特に際立って説かれているように感じます。
日蓮宗宗定法要式には、読誦について「清朗な音声で、言語爽やかに文々句々をはっきりと、つかえたり間違えたりせぬように注意して」等々と記されており、読誦にも発声や発音が大切であることが明らかです。
また、元政上人の誦経文にも「所謂、法音を歌誦して、これを以て音楽とするものか」とあり、読誦もまた音楽として向き合うことが大切なのです。
和讃の講演では、和讃に取り組む時の4つの心構えをお話し下さいました。その4つとは「1に信心、2に精進、3に素直さ、4に和合心」である、と。
正しい精進の為には、誤りを指摘された時に素直に聞き入れる心が必要です。また、よい音楽を仏様にお供えするのですから、仲間と共に声や音、そして心を一つに揃えて素晴らしい音楽を捧げなければならない。
これらは和讃に限らない、とても大切なことです。私達もまた、仏様に法味を言上する際、このように心構えを定めねばなりません。
よい声、明瞭な言葉で読誦し、仲間と心を一つに揃え、学びや感動を共有し、そして一部経読誦を後の世に伝えていく。私達の取り組み、受講生の皆様のご精進が、そのように素晴らしいことでありますよう、これからも努めてまいりたいものです。
七之巻講習会、無事に終了しました。
昨晩からぐっと寒くなりました。三木上人をお見送りした時には耳が寒さでチクチクする程でした。
そして今朝、朝勤の準備をしてますと、外は雪がチラチラ舞っていました。もう3月なのに…。
昨日お伝えしました通り、本圀寺様の本堂には暖房という強い味方が。広い本堂ですから全く寒くないわけではありませんが、暖房がなかったら、と考えると…いやぁ、誠にありがたいことです。
朝勤では35分程で七之巻の後半を読誦しました。
そして朝食のあと、今度は一巻を通して読誦します。
七之巻は一から六に比べて少し短いのですが、それでも雨垂れで一巻通読しますと1時間ほどかかります。
私、まだしばらく正座が出来ませんので、今回は半跏趺坐で読誦しましたが、頑張って正座しておられる皆様に、なんとも申し訳ない思いでいっぱいでした。
正座が出来ないと、何故か楽をしているような罪悪感があります。「日蓮聖人やお釈迦様は正座をしてない!「正しい座り方」というネーミングがいけないのではないか?」と屁理屈を言いながら調べてみますと、諸説あるようですが、正座が定着したのはおよそ100年くらい昔、明治政府が学校での教育として取り入れてからだと言われています。
その時、教科書に「正しい座り方」として掲載され、正座と呼ぶようになったのはそれからだそうです。
一説には、江戸時代、諸大名が将軍に謀叛を起こさないよう、足が痺れてすぐ立ち上がれないようにする為に目上の人の前では跪座(私達の用語では長跪)をするよう定め、このことから、神仏や目上の人の前でかしこまって座る礼儀座法として定着した、とも言われているそうです。へぇ〜、面白い話ですね。
最近イス席が増えたとはいえ、まだまだ長時間の正座が必要な業界です。かといって、足が痛いを理由にお経の習熟を嫌がるようでは困ります。
足を痛めては元も子もないですが、綺麗な正座がそこそこの長さ出来るよう、お経練習と合わせて取り組みたいですね。
今回の講習会も、本圀寺の皆様、執事シェフをはじめ多くの方々にご支援、お力添えを賜りまして、無事に終えることができました。
心より御礼申し上げますとともに、これからもよりよい講習会が開催できますよう、スタッフ一同、力を重ねて努めてまいりますので、今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
次回の日程が決まりましたらお知らせいたします。多くのご参加をお待ちしています。
内容講義続報
昨日の内容講義、19時に始まった濃厚なお話は、22時過ぎまで続き、最後は幾分速足となりましたが、妙音菩薩品の内容までお話いただくことが出来ました。
その後、質問をお受けになった三木上人が控え室にお戻りになったのが22時40分頃。そこから今度はスタッフからの質問とディスカッション。本圀寺からお見送りをした時、時計は23時30分を過ぎていました。
遅くまで本当にありがとうございました。
その内容を書きますとすごい長文になってしまいますので、それは受講した方々だけの宝物としてここには書かずにおきましょう。
一つ。過去にブログの記事にしましたが、「尼思仏か思仏か」問題について言及頂きましたので、それについてはお伝えしようと思います。
常不軽菩薩品に、「師子月等五百比丘尼思仏等五百優婆塞」という箇所があります。これを「 五百比丘。尼思仏等」と句切るか、または「 五百比丘尼。思仏等」と句切るのか、という問題です。(詳しくは過去の記事比丘尼?尼思仏? - 法華経一部読誦講習会 in WESTをご覧ください)
昨日の講義では、「 五百比丘尼。思仏等」が正しいでしょう、とのお答えでした。
理由は、「師子月」という方は法華経以外にも他の経典に登場なさるのですが、この方は女性なのだそうです。つまり「師子月等五百比丘」で句切ってしまうと師子月さんは男性になってしまいます。ですので、「師子月等の五百の比丘尼」が正しい、と。ありがとうございます。
そんなことがありましたので、私もあらためて過去の記事を読み直して見ました。すると今度は別の疑問がでてきました。
私の書きました記事では、岩波文庫の『法華経』と植木雅俊先生の『 梵漢和対照・現代語訳 法華経』を参照しているのですが、そこに「おや?」となる点が。
経文は「思仏等の五百の優婆塞」となっています。ですが、私が引用しました2冊はどちらも「女の信者たち」、「女性在家信者たち」となってます。
三木上人がお答え下さった部分は「比丘尼」で女性でした。その続きは「優婆塞」ですから、これは男性在家信者のはずです。ですが、この2冊はどちらも、「女性」としています。
これは何故でしょうか?
岩波本を見ますと、注釈ページには「尚、ここには優婆塞とあるも、(中略)梵文には五百の優婆夷とのみある」と書かれていました。
梵文は優婆夷ならば、上記2冊が女性と記すのはもっともですが、ならば鳩摩羅什は何故ここを優婆塞と訳されたのでしょう。
またあらためて調べてみたいと思います。

楽しい内容講義
始まりました、三木天道上人の内容講義。
毎回2日目の19時より21時までの予定で実施してます講義。今回で7回目となりますが、これまで毎回、話が盛り上がり過ぎて21時に終わったことがありません(笑)。
さて、今回はどのように濃密で学び深い講義を、何時までお聞かせ頂けるのだろう、と楽しみにお待ちしていましたらば、配られた資料を見てビックリです。21ページもある。

七の巻といえば、宗門も「いのちに合掌」のスローガンを立てて活動しています、但行礼拝の常不軽菩薩品。お聞きします所、三木上人は大学の卒業論文で常不軽菩薩様についてお書きになったとのこと。これは聞き逃せませんね。

ただ今、20時半となりました。これより神力品の内容に入ります!
今回ご欠席の方から、三木上人の講義をどうにかして聞けないものか、とお問い合わせを受けました。
ビデオで録画して公開するとか、事前に考えておけばよかったのですが、何の機材の準備もしておらず、携帯電話で録音することくらいしか出来ません。ごめんなさい。
次回以降(と言っても次回は最終巻の八之巻)、この学び深き内容講義がご欠席の方とも共有できるプランを、ちゃんと考えてみます。
シェフを呼んでくれたまえ
法華経一部読誦講習会 in WESTは、大本山本圀寺様を会場に開催しています。
この講習会の他、布教院等で本圀寺様にお泊まりになった方はご存知と思いますが、本圀寺はホテル等の宿泊施設ではありませんので、開催期間中のお食事は、山務員の方々が大変お手間をかけてご準備くださっています。
私達のような少人数での二泊三日とはいえ、朝昼晩と欠かさず食事のご用意を頂くのは簡単なことではありません。
誠にありがたいことで、心より感謝申し上げるのみならず、そのお力添えに応える為にも、読経漬けの日々に心血を注ぎ、一部経読誦の習得、そして一部経読誦の普及に尽力しなければバチが当たりますね。
さて、今回の講習会では、山務員の方々に加え、料理自慢の執事さんが日中の山務の合間に割烹着を着用になり、私達の為に料理の腕を奮ってくださっています。
昨日は美味しいトマトのスープを、そして今日の昼食はレパートリーの中でも特に自信作だと、カレーをお作り下さいました。その腕前は確かで大変美味しく、受講生の皆様も我々スタッフも、みんなおかわりしていました。

執事さんのお料理に限らず、毎日本当に美味しいお食事をご用意いただき、本当にありがとうございます。
七之巻講習会2日目の朝です
皆様おはようございます。
春のお彼岸まであと半月ともなりますと夜明けも日に日に早くなり、本堂前整列の頃にはもうだいぶ明るくなっていました。
今日も朝から小雨が降っており、寒々しい景色でしたので、さぞかし本堂は寒いだろうなぁ、と気を引き締めて朝勤に臨みましたが、なんと、ありがたいことに、本圀寺様の本堂に冷暖房機が導入されているではありませんか!
早速その恩恵に預かるべく、暖房のスイッチをオン。広いお堂ですのでそれでも朝は幾分寒くはありますが、トータル1時間ほどのお勤め中、激しい寒さにガタガタ震えることなく読経に集中することができました。
「私は寒さが苦手なので」という理由で講習会受講を諦めておられたそこの貴方、もう朝勤でも寒さの心配はございません。次回以降のお申し込みをお待ちしています。
話は前後しますが、昨晩も本圀寺の烏骨鶏たちは深夜、日付が変わる頃に賑やかに鳴き出し、夜を通して鳴き続けてくれました。
今回、私は寝不足になる程ではなかったですが、受講生の皆様は如何だったでしょう。
しかし、こちらもありがたい恩恵が。今朝の朝食では、彼女たちが元気に産んでくれた卵を頂きました。
夜行性の獣に襲われないように威嚇する為の夜鳴きですから、彼らがその習性に従って夜鳴きをし、身を守って元気に育ってくれたお陰の賜物です。
夜鳴きに文句を言っていた自分の浅はかさを恥じる等、色々と思いを馳せ、生命の恵みに感謝しながらありがたく口に運びました。
「我らこれによって心身の健康を全うし、仏祖の教えを守って四恩に報謝し、奉仕の浄行を達せしめ給え」と食法で唱えますよう、このエネルギーを充分に注ぎ、午前のお稽古に励みます。
食べ物の話ばかりでいけませんが、毎回恒例のオヤツ写真を。

粗雑な読誦行
七之巻のお稽古も進み、ただ今、如来神力品をお読みしています。
如来神力品は、信行道場に入る為の読経考査の際に練習しているはずですから、皆さんお上手です。
ですが、やはりまだ見習いで色々と備わらない頃の練習ですから、いざあらためて一々文々でお読みしますと、曖昧に覚えていた箇所が炙り出されてきます。ゆっくり丁寧にお経を読むのは大切ですね。
自分自身を振り返って恥じることが沢山ありますが、お経が上手になってくると、もうスラスラ読めるお経は退屈に思ってしまったり、そこだけスピードを上げて雑に読んでしまったりと、お経を粗末に扱ってしまうような時期がありました。あえて言うまでもなく、これはよくない。
幼少の頃より何度も読んできた方便品とお自我偈。早く初級を卒業してもっと難しいお経が読めるようになりたい、と思っていました。
寿量品を早いスピードで転読できるようになると、速さを競ったり、ワァワァと叫ぶように読誦して、まるでスポーツの応援席のような様相。そこに、経文をありがたがる心は僅かとも有ったのでしょうか?
そこに説かれる法門が大切だからこそ何度も何度も繰り返し読むのであって、そこを軽んじて速さを競ったり他の品々に目移りしたりするのは、若気の至りとは言え、誠に愚かなことであったと大いに恥じています。
講師先生より、お経を習う時、何故カナ付きのお経本を不可としているか、というお話を頂きました。
何度も書いてきたことですが、字には1文字1文字に意味があります。お経を漢字で読むということは、意味も同時に受け取ることができます。
ですが、カナ付きのお経本を読んでいると、私達の目線は漢字には行かず、ルビの平仮名を追いかけるでしょう。
お経はそれ自体がありがたいから、意味も分からずともありがたがって読めばよい、という方もいらっしゃるでしょう。
ですが、ただただカナの発音だけを繰り返しているだけでは、過去の私のようにそのうち退屈になり、粗雑に扱ってしまうようになるのではないでしょうか?
読誦は法華経・お題目を受持する為の助行と位置付けられてます。
助行だからと軽んじるのもいけませんが、法華経を読誦・解説・書写することによって法華経・お題目を正しく持つことができるのですから、やはり大切な修行です。
そして、経文の1文字1文字に心を注いでお読みする為には、最初は読みにくいかも知れませんが、やはり、カナ無しのお経本で漢字を熟視して取り組むことが好ましいのです。
「一々文々是真佛」と言います。一文字一文字が佛様の御姿に見えるような読誦を目指し、受講生もスタッフも益々の精進を重ねてまいります。