講習会2日目。
起床の後、身支度を整えて本堂にて朝勤です。
昨日習いました六之巻の半分を読誦しました。ゆっくりじっくり丁寧に雨垂れでお読みしますと、半巻でだいたい40分くらいかかりました。
他の宗派はどんな速度なのか存じ上げないですが、日蓮宗では速くお経を読むことが多いように思います。
ですが、上達するには、やはりゆっくり丁寧に、がいいです。
私自身、常々は速く読んでおりますので、たまにゆっくり読みますと、「おや?」と不安に思う箇所が出てきます。こういった、不確かな箇所の確認は、1人では難しいですから、仲間と共にゆっくり読誦する朝勤は、とても大切な機会だと痛感します。
以前、受講生の方より「読誦中に、不確かな箇所が出てきた際に印を付けたいので、朝勤に鉛筆を持って行っていいですか?」と尋ねられました。
講師陣に確認しますと、返答は「不可」でした。何故ならば、「朝勤はお経の練習ではなく、法味言上だから」という理由でした。
実のところ私は、自坊での日々の朝勤をお経や木鉦の練習の場だと勘違いしていたことがあります。ですから、本堂に鉛筆を持って上がりたいというお気持ちも、よくわかるのです。ですが、練習と法要は履き違えてはいけないのですよね。
楽器や歌、芸能などでも同様の考え方があるようで、「プレイ」と「プラクティス」を区別することは大切と言われます。
例えば、楽譜を見ながら難しい箇所だけを繰り返し、自分のテンポで練習をする、これは「プラクティス」です。
この時、何度間違おうと、練習なのですから更にテンポを落としたり初めからやり直したりと、その取り組み方は何でもありです。
一方、お客さんの前で演奏する本番はもちろん、リハーサル等、複数メンバーと共に合奏するのは「プレイ」です。
そうなりますと、一度始まった演奏は、一曲またはある程度の節目まで停まることなく続けられます。
もしもその時、稽古不足ゆえに間違ったりフレーズが思い出せなかったりすると如何でしょう?リーダーに叱られたりバンドをクビになったりしそうです。
言うまでもなく、「プレイ」はシビアなのです。だからこそ、講習会中のカリキュラムだからと言え、朝勤は一座の法要として真剣に取り組まねばなりません。(自戒の念を込めて書いております)
そしてその分、教場での練習中に不確かな箇所がなくなるよう、しっかりメモをとり、経本に書き込み、講師先生に質問し、何度も確認をし、という「プラクティス」の濃度を上げていくことが大切なのです。